ミッドウェイ(映画)南雲忠一の経歴まとめ!サイパンの戦いと自殺との関係についても

 

映画『ミッドウェイ』2020年9月11日(金)公開されます。

 

第二次世界大戦(太平洋戦争)の1942年(昭和17年)6月5日から7日のかけて行われた

ミッドウェイ海戦を題材にした作品。

 

『インディペンデンス・デイ』シリーズ、『デイ・アフター・トゥモロー』『ホワイト

ハウス・ダウン』などを手掛けた、スペクタルの巨匠ローランド・エメリッヒが監督を

務めたということで話題です。

 

前回の記事では、ミッドウェイ海戦を語る上で、この人なしでは語れないということで

『山本五十六』について解説しました。

 

さて今回は、もうひとりの重要人物『南雲忠一』の経歴、またサイパンの戦いと自殺

との関係についてまとめました。

 

 

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ミッドウェイ(映画)南雲忠一のプロフィール経歴

太平洋戦争の中でも、とりわけ有名な戦いであるミッドウェイ海戦を描く、

映画『ミッドウェイ』。

 

山本五十六、山口多聞、東条英機など、様々な重要人物が登場することでも知られて

いますが、今回、取り上げるのが南雲忠一です。

 

山本五十六役は豊川悦司さん、山口多聞役は浅野忠信さん、東条英機役はヒロモト・

イダさん、南雲忠一は國村隼さんが演じました。

 

さて南雲忠一とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

 

 

1887年(明治20年)3月25日 – 1944年(昭和19年)7月6日)山形県米沢市出身。

郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子。

海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動

部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により最終階級

は海軍大将。正三位勲一等功一級。57歳没。

 

 

米沢尋常中学興譲館卒業後、海軍兵学校に入学した南雲忠一は、きわめて優秀で、三号、

二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された。1908年(明治41年)海兵36期を191人中

5番の成績で卒業。海軍少尉候補生となり、巡洋艦「宗谷」乗組。

 

その後、海軍大学校に入学し、次席で卒業。

1920年には海軍少佐、1924年には海軍中佐、1929年には海軍大佐と昇進していきます。

 

やがて南雲忠一は、ロンドン軍縮会議において意見が異なる者たちを辞職させようと

したり、五・一五事件では被告に重い刑を科すことを回避させようとしたり、ロンドン

海軍軍縮条約では脱退を主張するなど、その存在感を高めていく。

 

1935年には海軍少将に昇進。1938年には第三戦隊司令官に就任。1939年には海軍中将

に昇進。1941年には第一航空艦隊司令長官に就任と猛スピードで出世を重ねていきます。

 

1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃の実行を指示され、アメリカの戦艦4隻を撃沈

2隻を大破させ、アメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。さらに1942年

(昭和17年)4月5日から9日のセイロン沖海戦においても勝利を納め、その武名を上げる

ことに。

 

ところが1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけてのミッドウェイ海戦において日本

海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失するという決定的な敗北を

期してしまい、以後、太平洋戦争は日本にとって不利な展開になっていくことになり

ます。

 

このような結果ではあるが、1942年(昭和17年)7月14日、第三艦隊司令長官に就任。

ところが1942年(昭和17年)8月、ガダルカナル島の戦いで再び敗北する。

 

その後、1942年(昭和17年)11月11日、佐世保鎮守府司令長官。1943年(昭和18年)

6月21日、呉鎮守府司令長官。1943年(昭和18年)10月20日第一艦隊司令長官。

 

1944年(昭和19年)3月4日、中部太平洋方面艦隊司令長官に就任する。

1944年(昭和19年)3月4日、南雲忠一はサイパン島に着任する。

 

そしてこの地を舞台とする、サイパンの戦いが始まりました。役20日間の抗戦の末、

同年7月6日午後10時ごろ南雲忠一は自殺した。

 

これを受け、一階級特進で海軍大将となり、正三位、勲一等、功一級となりました。

 

 

波乱に満ちた人生を送った南雲忠一。映画『ミッドウェイ』で國村隼さんがどのように

演じるのか、楽しみです。

 

 

 

南雲忠一の死因

南雲中将以下海軍守備隊幹部

 

このように南雲忠一は、自殺により亡くなっていました。同じ海軍の重鎮でも戦死した

山本五十六とは対照的だと言えるでしょう。

 

それでは南雲は、どのような形で自殺したのでしょうか。軍人といえば日本の場合、

割腹のイメージが大きいですが、南雲もそうだった。

 

南雲は、陸軍中将の斎藤義次、陸軍少将の井桁敬治とともに割腹し、部下に頭を撃たせ

たのです。また最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」

だった。

 

なんとも衝撃的な最期だった南雲ですが、映画『ミッドウェイ』では、このシーンは

描かれているのか?気になるところです。

 

 

 

サイパンの戦いとは?

 

サイパンの戦いは太平洋戦争において、真珠湾攻撃、マレー沖海戦、ミッドウェイ海戦、

ガダルカナル島の戦い、レイテ沖海戦、硫黄島の戦い、沖縄戦と並んで、とても有名な

戦いです。

 

1944年(昭和19年)6月15日、サイパン島にアメリカ軍が上陸して来て、南雲はこれを

迎え撃つことになります。

 

ところが連合艦隊による助けを待っていた南雲に対し、連合艦隊は肝心の第一機動艦隊

が、マリアナ沖海戦でアメリカ軍に大敗を期してしまったため、それどころではなくな

ってしまったのです。またこのことにより、日本軍は太平洋水域の制海権を喪失する。

 

このような経緯で日本軍はアメリカ軍に大敗北してしまった。

そしてサイパン島の陥落により、アメリカ軍に日本本土空襲の基地を与えたことで、

東条英機内閣は総辞職した。

 

 

サイパン島の戦い(1944年6月15日~7月9日)

日本軍  アメリカ軍
戦力 31,629人 戦力 66,179人
損害 損害
戦死 25,000人 戦死 3,500人
自決 5,000人 戦傷 13,160人
捕虜 921人    

 

これ以降も日米の激戦は続いたが、サイパン島を含むマリアナ諸島の失陥と絶対防衛圏

の崩壊が日本の敗戦を決定づけたと言っても過言ではない。

 

 

 

サイパンの戦いと自殺との関係

 

サイパンの戦いで自殺を遂げた南雲忠一。

彼はなぜ自殺しないといけなかったのでしょうか。

 

南雲が第一航空艦隊司令長官として指揮をとった空母機動部隊は、開戦後半年間に

おける主要海空戦(真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦)だけでも敵の戦艦

4隻・空母3隻・重巡洋艦2隻をはじめ輸送船その他多数を撃沈している。

 

これだけの戦果を上げた指揮官は、日本には存在しない。東はハワイ、西はインド洋、

南はオーストラリア(ダーウィン空襲)に至るまで縦横無尽、まさに無敵艦隊だった。

 

またミッドウェイ敗戦後も第三艦隊司令長官としてガダルカナル島をめぐる南太平洋

海戦で勝利し、この時撃沈したアメリカ空母「ホーネット」は、日本空母の艦載機が

撃沈した最後の敵軍艦となった。

 

しかしこの快進撃もミッドウェイ海戦での敗退が転機になる。真珠湾攻撃からわずか

半年あまりでの海戦ということで、その疲労も十分回復しないまま、4隻の空母を柱

として出撃した南雲機動部隊は、ミッドウェイ島攻撃から、敵機動部隊攻撃への兵装

転換の裏をかかれ、全空母と山口多聞第二航空艦隊司令官を失います。

 

その後南雲は、新設した機動部隊(第三艦隊)の司令長官にスライド就任し、第二次

ソロモン海戦及び南太平洋海戦で一定の戦果をあげ、1944年(昭和19年)3月4日

中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官に就任し、サイパン島に

着任することになる。

 

ところが艦隊司令長官といっても船はなく、地上基地に待機し航空部隊が戦力だった。

このとき南雲は「今度は帰れない」と告げていることから、すでに腹を括っていたの

かもしれません。

 

また唯一の望みだったマリアナ沖海戦の勝利も小澤司令長官率いる機動艦隊は空母

3隻を失う大敗、機動部隊は実質的に壊滅するということでその望みも絶たれ、また敵

の攻撃もより一層激しさを増し、新防衛線もアメリカ軍の包囲を受け合同司令部は今後

の方針について協議することに。

 

日本軍は、さらに島の北端まで撤退するか、全軍挙げて玉砕攻勢を行うかの二者択一に

迫られたが、7月7日をもって全軍で玉砕突撃し全員の死を以って太平洋の防波堤となる

事に決定した。

 

7月5日に全兵士に「明後7日、米鬼を索めて攻撃に前進し一人よく十人を斃し以って

全員玉砕せんとす」「予は諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念

しつつ諸士とともに玉砕す」と命令し、

 

7月7日、南雲は全軍に「今や止まるも死、進むも死、生死すべからくその時を得て

帝国男児の真骨頂あり、今米軍に一撃を加え太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を

埋めんとす」と訓示を行った後、斎藤中将、長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に

自決した。

 

仕方がなかったのか、また潔いとするべきか、複雑な感情です。

もしも全員で投降していればどうなるか?など考えてしまいます。

 

当時の人達からすれば、投降するぐらいなら死んだ方がましだということでしょうが

それにしても、あまりにも理不尽過ぎるように感じます。

 

そもそも人事自体、間違っていませんか?南雲は水雷戦術の第一人者でその南雲に

船もなく、地上基地で待機、航空部隊が戦力って悪意としか言いようがない。

 

戦いの最中でこの人事はありえない。

負けは許されないときに、責任逃れのために事務的に人事を行ったとすれば、

勝てるものも勝てるはずはありません。その責任は誰にあったのか。

 

無駄死にとしか言いようがない。

 

 

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まとめ

さて今回は、南雲忠一についてまとめてみました。

愚将と呼ばれた影にはこのようなことがあったのだと確認できました。

 

結局、日本軍が大敗を期したのには、人事の失敗が大きく関わっていると感じる。

 

とこのようなことを思いながら、映画『ミッドウェイ』を観てみると、また違った

感情を持つのかもしれませんね。

 

公開は、2020年9月11日(金)公開

ローランド・エメリッヒ監督が日本軍をどのように描いているのか?

見逃すわけにはいきません。

 

 

 

最後までありがとうございました。

ゆうすけ

 




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