ミッドウェイ(映画)山本五十六の経歴まとめ!死因やヴェンジェンス作戦についても

 

映画『ミッドウェイ』2020年9月11日(金)に公開されます。

ミッドウェイ海戦を題材にした作品で全米興行収入初登場1位の大ヒットを記録

している。

 

『インディペンデンス・デイ』『デイ・アフター・トゥモロー』などを手掛けた

スペクタルの巨匠ローランド・エメリッヒが監督を務め、豊川悦司、浅野忠信、

國村隼など、日本を代表する俳優陣を迎え、20年に及ぶリサーチの元に描かれて

いるということで話題です。

 

ということで今回は『ミッドウェイ海戦』を語る上で、この人なしには語れない

『山本五十六』の経歴や死因、ヴェンジェンス作戦についてまとめました。

 

 

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ミッドウェイ(映画)山本五十六のプロフィール経歴

映画『ミッドウェイ』に登場するキャラクターのなかでも、とくに重要な人物として、

山本五十六がいます。おそらく多くの方が山本五十六の名前を一度くらいは耳にした

ことがあるのではないでしょうか。さてどのような人物だったのでしょうか?

 

 

1884年4月4日~1943年4月18日(59歳没)新潟県出身

最終階級:元帥海軍大将

第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。

前線視察の際、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で戦死。

 

 

旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。名前の由来父親の年齢から

「五十六」と名付けられた。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校

を卒業する。10歳年上の甥の病死により両親から甥に変わって立派な軍人になって

欲しいと言われ軍人を目指す。

 

1901年(明治34年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入学。同期生に堀悌吉、

塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾がいる。在学中に堀悌吉と親友になる。

 

日露戦争中の1904年(明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業。

少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する。

 

1905年(明治38年)1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり5月27日

の日本海海戦に参加する。この海戦において左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に

重傷を負う。

 

防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、

駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務する。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校

普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた。

 

卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)

「宗谷」に配属となる。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿

任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した。

 

1913年(大正2年)に両親が亡くなった後、海軍大学校に入学し旧長岡藩家老だった

山本家を相続したことにより、山本五十六と称することになる。

 

1916年(大正5年)12月海軍大学校を卒業。1917年(大正6年)1月、腸チフスに

かかり、療養中に発症した虫垂炎のため生命の危険に陥るが九死に一生を得る。

 

1917年(大正6年)7月海軍省軍務局員を務めたのち海軍教育本部第一勤務となる。

この頃、友人から紹介された三好礼子に一目惚れし、見合いを経て8月31日に結婚。

 

ハーバード大学に留学した五十六は、日本に帰国すると、やがて海軍少将にまで

昇進し、ロンドン軍縮会議に次席随員として出席します。しかしここで軍縮に反対

を唱えるが、軍縮が通ってしまったものの、このことが後の出世へと発展する。

 

1934年(昭和9年)第二次ロンドン海軍軍縮会議において、海軍側首席代表として

参加した。ワシントン海軍軍縮条約は破棄されることになり、五十六が担っていた

予備交渉も取りやめとなってしまいます。

 

1936年(昭和11年)二・二六事件が起こり、五十六は賛成派の海軍青年士官を一掃

し内閣総理大臣の岡田啓介や、侍従長の鈴木貫太郎の命を助けた。同年には日独防共

協定が締結され五十六は、海軍次官に就任

 

この後、盧溝橋事件、日中戦争、第二次上海事変と、次々と難題が降りかかってくる

ものの、これらに取り組み、日独伊三国同盟の締結に対し、アメリカやイギリスとの

関係を重視する観点から反対する。

 

1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令

長官)に就任する。ところが日独伊三国同盟が締結されたことにより、日本と

アメリカやイギリスとの関係は悪化してしまうことに。

 

1940年(昭和15年)旭日大綬章、ドイツのドイツ鷲勲章大十字章を受章するが、

1941年(昭和16年)真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発。

 

以後、五十六は連合艦隊司令長官として長きに渡り、戦争に関わっていくことになる。

ところが日本軍は、1941年(昭和16年)のマレー沖海戦では勝利したものの、

1942年のミッドウェイ海戦では敗北を期する。

 

1943年(昭和18年)には、ガダルカナル島の戦いでも敗北し、ガダルカナル島から

退却を余儀なくされてしまう。そんな中、1943年(昭和18年)4月18日、五十六は、

戦死した。59年の生涯だった。

 

その死後、五十六は大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、正三位となって、元帥を

追贈されることに。さらに戦前としては唯一の例ですが、平民でありながら国葬に

され、ドイツからも外国人としては唯一、剣付柏葉騎士鉄十字章を授与されています。

 

国葬後、五十六は東京都の多磨霊園に埋葬され、その墓は東郷平八郎の左となった。

あまりにも壮絶な生涯をだった五十六。本作でもどのように描かれているのか?

楽しみです。

 

 

 

山本五十六の死因

 

それでは五十六の死因とは、どのようなものだったのでしょうか?

 

作戦の陣頭指揮を執るためにラバウルを訪れていた五十六は、将兵たちの労を労う

ため、帰還の前に最前線に赴くことになっていた。

 

そのため一式陸上攻撃機に搭乗しラバウル基地を出発しブイン基地へ移動するところ

をブーゲンビル島の上空においてアメリカ陸軍航空隊の待ち伏せにあう。

 

6機もの戦闘機に護衛されていたものの撃墜されてしまいます。

この結果、戦死しました。

 

その後、五十六が戦死したこの事件を海軍甲事件』とした。

 

 

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ヴェンジェンス作戦とは?

 

そもそも五十六のような敵軍司令官を暗殺するには、当然それなりのリスクを負うこと

になる。しかも特に名のしれた五十六の場合、アメリカに対する憎悪の増大やより一層

戦意が上がることが懸念された。

 

しかし五十六はアメリカにとっては脅威。それだけ優秀で人望も厚く、危険な人物だと

認識されていた。もしも五十六を排除できれば、日本軍のみならず、日本国民の士気

さえも低下させることができる。また五十六亡き後、それより優秀な指揮官の後任は

難しいとふんだことから作戦の決行を決めた。

 

アメリカ軍は日本海軍の暗号解読に成功していたことから、五十六の行程を掴んでいた。

そして五十六を待ち伏せし暗殺する暗号名『デリンジャー』、ヴェンジェンス作戦

計画・決行した。

 

因みに「ヴェンジェンス」とは報復・復讐という意味があり、真珠湾攻撃を立案・

指揮した山本五十六への報復という意味が込められている。

 

 

 

ヴェンジェンス作戦の過程

1948年(昭和18年)4月18日

午前5時25分

ガダルカナル島ヘンダーソン基地出撃、

P-38戦闘機18機

(7時35分にブーゲンビル上空に到着予定)

1948年(昭和18年)4月18日

午前6時05分

一番機に山本長官と幕僚、二番機には連合艦隊参謀長宇垣纏中将ほか幕僚が搭乗する。

山本長官らが搭乗する一式陸上攻撃機2機と零戦6機に護衛され、ニューブリテン島ラバウル東飛行場から出発。

1948年(昭和18年)4月18日

午前7時33分

P-38戦闘機16機(出撃後2機故障帰還)

山本長官らが搭乗しているV字編隊の一式陸上攻撃機2機、零戦6機をブーゲンビル島上空で発見し攻撃を開始した。

1948年(昭和18年)4月18日

午前7時50分頃

山本長官らが搭乗している1番機に被弾し、ジャングルに墜落する。

宇垣纏参謀長らが搭乗している2番機も被弾し、海上に不時着する。

 

1番機に搭乗していた山本長官以下11名はブーゲンビル島内に墜落し全員戦死。

2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名が負傷したが海上に不時着後救助された。

 

 

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まとめ

ミッドウェイ海戦の敗退、山本五十六の暗殺は、アメリカ軍が日本軍の暗号を解読

してたことが背景にあります。

 

そのことを気づけなかった日本軍の意識の低さ、危機管理のなさを感じます。

真珠湾攻撃が上手くいったことで大きな気の緩みがあったのではないか。

 

そもそも勝てる相手ではなかった。

ということですね。

 

映画『ミッドウェイ』の公開は、2020年9月11日(金)

 

 

 

最後までありがとうございました。

ゆうすけ

 

 

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