ミッドウェイ(映画)東条英機のプロフィール経歴まとめ!死因や人物像についても

 

2020年9月11日(金)映画『ミッドウェイ』が公開されます。

 

太平洋戦争の中でも歴史を左右する転機となったミッドウェイ海戦をテーマにした

問題作である、映画『ミッドウェイ』。

 

山本五十六、山口多聞、南雲忠一など、実在した名だたる軍人たちが登場するという

ことで話題となっています。

 

さて今回は、実在した著名な日本軍の東条英機について、プロフィール経歴やまた

死因や人物像についてまとめました。

 

 

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ミッドウェイ(映画)東条英機のプロフィール経歴

東条英機は陸軍大将であり、太平洋戦争開戦時の総理大臣だった人物。

 

 

1884年(明治17年)7月30日- 1948年(昭和23年)12月23日

東京都千代田区出身。日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。

関東軍参謀長・陸軍次官などを経て、1940年(昭和15)第二次近衛内閣の陸相となる。

翌年首相に就任し、陸相と内相を兼任、対米英開戦の最高責任者となり太平洋戦争を

推進した。44年7月、サイパン陥落直後総辞職。戦後 A 級戦犯として絞首刑。

 

 

 

東条英機は、1884年7月30日、東京都で、父親で陸軍中将の東条英教、母親の東条千歳

の三男として生まれました。

 

番町小学校、四谷小学校、学習院初等科、青山小学校、東京府城北尋常中学校、東京

陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校で学んだ東条英機は、1905年には

陸軍歩兵少尉、1907年には陸軍歩兵中尉に昇進。1909年には伊藤かつ子と結婚します。

 

そして陸軍大学校を卒業して、1915年に陸軍歩兵大尉、1920年に陸軍歩兵少佐、1924年

に陸軍歩兵中佐、1928年に陸軍歩兵大佐、1933年には陸軍少将と順調に昇進。

 

以後も関東憲兵隊司令官に就任し、二・二六事件では収拾に動き、1936年には陸軍中将

に昇進し、1937年には関東軍参謀長に就任しました。

 

東条英機は日中戦争においても活躍し、1938年には陸軍次官、1940年には陸軍大臣と、

着々と権力の階梯を登っていきます。

 

1941年、太平洋戦争開戦に傾き、総理大臣の近衛文麿と対立して辞職。

その後、後継の総理大臣に就任し、陸軍大将に昇進したのでした。

 

東条英機は、昭和天皇の意向で太平洋戦争回避に動いたものの、アメリカ側の

ハル・ノート、正式には『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略』を受け、

一転して開戦は不可避な情勢に。

 

同年日本軍は、真珠湾攻撃を成功させ、太平洋戦争が開戦。

 

当初は戦局も良かったものの、やがてミッドウェイ海戦を契機に状況は悪化して

いきます。それでも東条英機は、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼任し強権を

奮っていましたが、サイパンの戦いで敗北したことで、倒閣の動きが強まっていき、

1944年、退陣に追い込まれました。

 

太平洋戦争は、1945年広島、長崎への原子爆弾投下を経て、多大な惨禍を残した末に

ようやく敗戦というかたちで終結。

 

その一方、開戦時の総理大臣だった東条英機は、終戦から1ヶ月後に、拳銃自殺を

図るが、失敗に終わります。ところがこの3年後の1948年、極東国際軍事裁判

(東京裁判)で「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で

死刑判決を受け執行されました。

 

享年64歳、あまりにも壮絶な生涯でした。

 

映画『ミッドウェイ』においては、ヒロモト・イダさんが演じることになっています。

ヒロモト・イダさんのプロフィールなど詳細は分っていませんが、どのように演じて

いるのか?楽しみです。

 

 

 

東条英機の死因

東条英機は、総理大臣だったにも関わらず、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑と

なりました。総理大臣経験者で死刑になったのは、この他に広田弘毅のみです。

 

死刑執行は、1948年12月23日、巣鴨拘置所において行われました。

死因は、絞首刑であるため、窒息死であるとみられます。

 

なお東条英機らの遺体は遺族に返還もされず、火葬後、遺骨は太平洋に投棄される

ところだったが、小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある

興禅寺住職の市川伊雄は、遺骨の奪還を計画する。

 

1948年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に

捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。回収された遺骨は全部で

骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。

 

1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、

愛知県西尾市の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営

され、遺骨が祀られている。

 

 

因みに辞世の句は、

 

「我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば」

「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」

「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」

「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

 

この4首だった。

 

 

 

なぜ処刑されたのか?その理由とは

 

東条英機が処刑されたのはどうしてだったのでしょうか?

 

連合国側は、敗戦した日本を占領するため、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開いて、

東条英機ら戦争責任者を裁く必要があったから。

 

もっとも戦犯も全員が処刑されたわけではなく、終身刑などになった者もいたのです。

処刑された戦犯は、太平洋戦争にとくに深く関わった人たちで、東条英機は開戦時の

総理大臣だったため、対象から外すわけにはいかなかったのでしょう。

 

とは言うものの、正直なところ納得できない。

 

 

 

A級戦犯とは?

東条英機のように、処刑された戦犯は、すべてA級戦犯でした。

 

東条英機の他、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田弘毅

で、広田弘毅だけが軍人ではありません。

 

さてこのA級戦犯ですが、極東国際軍事裁判(東京裁判)における「戦犯」には、

「A級」「B級」「C級」の3種類があります。

 

一般的にこの級は、罪が重いものから並べているものとみられがちですが、実際には

違っていました。あくまで罪の種類の違いであり、A級戦犯の場合「平和に対する罪」

だった。

 

いずれにせよ、極東国際軍事裁判(東京裁判)自体が、戦勝国による敗戦国へのリンチ

に過ぎなかったという見解は少なくありません。

 

 

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東条英機の人物像

 

映画『ミッドウェイ』の登場人物でも注目の1人である東条英機は、一般的に悪者と

して描かれることが多いことで有名です。

 

「カミソリ東条」と呼ばれた。

 

頭脳明晰で切れ味が鋭く、規律を重んじ部下には厳しく接したためであるが、

その一方で退職する部下の就職の世話まで焼く、面倒見のいい一面も備えていた。

 

 

こんなエピソードも

 

歩兵隊長になった際、将校全員の容貌・経歴・家庭環境を暗記してから着任した。

陸大を受験する少尉や中尉には、仕事の負担を減らし受験勉強の時間を与えた。

兵卒一人ひとりから直接話を聞き、食事に対しても気を配った。

 

このエピソードを見ると、部下への気配りを欠かさない面があったようですね。

本当に死刑にされるほどの悪者だったとは思えません。

 

また皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示

される。天皇への絶対的忠誠心の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ち

に改め、和平の道を模索したようです。

 

本当は戦争をしたくなかったが、どうしようもなかったというところ。

 

アメリカ側からのハル・ノートの影響で、開戦を回避することが出来なくなった

というのが真実のようです。フランクリン・ルーズベルト政権が大きく関わって

いると考えられる。

 

そして開戦日の未明には、首相官邸の自分の部屋で、皇居に向かって号泣しながら

天皇に詫びていたということです。

 

戦争回避に尽力していた人間に思いっきり責任転嫁した形だと思う。

彼もまた戦争の犠牲になった人間のひとりだと考えられる。亡くなってもまだ

悪者扱いするのは、納得がいかない。

 

映画『ミッドウェイ』で東条英機がどのように描かれているのか?

とても気になる。

 

 

こちらも合わせてご覧ください。

 

 

 

まとめ

今回は東条英機の人となりも含め経歴などまとめました。

まだまだ知らないことが多くて、驚くことも多かった。

 

今作はハリウッド映画ということで、アメリカ目線で製作さているということ。

さてローランド・エメリッヒ監督は、日本軍をどのように描いているのか?

気になるところ満載です。

 

 

 

 

公開は、2020年9月11日(金)

見逃すわけにはいきませんね。

 

最後までありがとうございました。

ゆうすけ

 

 




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